ほんわかMkⅡ


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家族



一昨年の初冬に舅、昨年の春に姑と立て続けに亡くして姑の49日の頃

61 公共放送名無しさん [] 2014/07/23(水) 03:54:24.65 ID:hG+zQUD4
一昨年の初冬に舅、昨年の春に姑と立て続けに亡くして姑の49日の頃
姑がたっくさんある着物の形見分けを指示してくれる夢見てさ
それが終わったら舅が迎えに来て、上野の駅から機関車乗って
二人仲良く旅立っていかれた
機関車見てたら思い出したわ


父がガンの末期状態で母と弟とホスピスへ申し込みに行きました。

391 名前:名無しさん[] 投稿日:2000/04/17(月) 14:36
3年前、父がガンの末期状態で母と弟とホスピスへ申し込みに行きました。
申し込んだ後、喫茶店であんみつを頼みました。
みんな胸が詰まって食べれなかったのですが、
父が「食え!全部食うんだぞ!」とものすごい形相で食べ始め、
母も下を向いたまま涙をボロボロ流しながら必死で食べてました。
弟は席をはずした後、真っ赤な目で戻ってきてものすごい勢いで食べました。
私は、これを全部食べたら父が良くなるような気がして一生懸命食べました。
ほどなく父はホスピスに入ることなく亡くなりました。
今でもあんみつを見るとあの日の光景が浮かんできてつらいです。




小さい頃、親父は俺が嫌いだった。 物心ついてから小学生の中学年くらいまでは、良い思い出なんて一つもない。

242 名前:彼氏いない歴774年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 15:20:57.45 ID:l8njS7dZ
387 :本当にあった怖い名無し :2010/07/08(木) 14:05:50 ID:dnQmckUHO
小さい頃、親父は俺が嫌いだった。
物心ついてから小学生の中学年くらいまでは、良い思い出なんて一つもない。
俺に対して口を開けば嫌味や暴言ばかりで、「お前みたいなカスが俺の子供であるはずがない」が口癖。
友達を作る権利なんてないと言われ、友達を作る事も遊ぶことも禁止。
食事中何か零したり一言でも口を開けば、線香の火を押し付けられベルトで叩かれる。
親父の笑顔なんて一度も見たこと無かったし、連休や休日家族で出かけたり一緒に写真を撮ったこともないし、
学校の行事にも一度だって来てくれた事はなかった。
俺もそんな親父が怖くて、夜や休日は、風呂と食事以外ずっと部屋に閉じこもっていた。
小5~6年の頃の記憶がない。
全くない訳ではないが、家族に関する記憶が一切思い出せない。
中学に入ってからは、親父に怯えた記憶はない所か親父との仲は良好。
連休の度遠出し、休日は家族全員で買い物やドライブに出掛けた。


243 名前:彼氏いない歴774年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 15:21:31.38 ID:l8njS7dZ
昨日用事があって実家に帰ったんだが、
突然昔のことを思い出して、親父に嫌味の一つでもと思ったんだ。
昔話の一貫のつもりで話したさ。
そしたら、親父もカーチャンも目真ん丸にしてキョトーン。
はぐらかすなよwと茶化してもキョトーン。
カーチャンに至っては、
「あんなに大事にしてくれた父ちゃんに、なんてこというの!!」とぶちギレる始末。

カーチャンが俺に投げ付けてきた二冊のアルバムには、
俺が生まれたばかりの頃から、高校を出るまでの写真がいくつも貼ってあり、
写真の大半は、親父やカーチャンと写った写真だった。
赤ん坊の俺や園児服の俺を、愛おしそうに微笑みながら抱く親父。
運動会で俺と二人三脚してる親父。
ブカブカの学ランを着た卒業証書を持った俺を肩車する親父。
どれも見覚えがないものだった。

これは何なんだろう。
ただの記憶違いなんだろうか。
もし記憶違いだとしたら、
親父や家族との楽しい思い出が一切頭から消えて、
辛い思い出に書き換えてしまった自分が憎い


ある日俺がたこ焼きを作って家族3人で食った。子供も嫁もなんか久しぶりの団欒だった。

900 名前:コピペ[] 投稿日:2007/03/10(土) 16:18:42 ID:E545+OOq
夫婦仲良くできず、子供(当時3歳)と3人で飯食うこともほとんど無かった。
ある日俺がたこ焼きを作って家族3人で食った。子供も嫁もなんか久しぶりの団欒だった。
みんな沢山食った。

その後、子供と風呂に入った。大量に彼は大量に吐いた。
「しんどいのか?」「風呂上がって休もうか」と俺は子供に聞いた。
子供は「うぅん。だってとうさんが作ってくれたのをかあさんと沢山食べて楽しかったんだ」
「みんなが楽しかったから楽しくて沢山食べたん。美味しかったで」

3歳の子供がこんなことを言うのかという驚きと、
その頃折り合いの悪かった嫁との関係を恥じた。子供の目にもそれが見えていたんだ。

風呂でゲロまみれの子供にシャワーを浴びせながら泣いた。
あまりに耐え切れず、その後子供を抱きしめて泣きじゃくった。「ごめんな」を繰り返した。

他の人が聞くとたわいの無い話だろけど、俺にとっては一生忘れられない話だ。


「大好きなものを描いてね」といういやに抽象的な テーマ

313 名前:まい[] 投稿日:2000/04/04(火) 16:57
(「あめぞう」にも書いた事ある内容ですが・・・)
幼稚園の頃お絵描きの時間に先生が
「大好きなものを描いてね」といういやに抽象的な
テーマをだした。
みんなは、「おかあさん」とか「愛犬」とか「お花」を
描いていたが、私は、画用紙一杯に茶色の丸を
何個も何個も描いた。先生の「これ、なあに?」の問いに
「とりのからあげ!」と元気に答えた私。
教室内は大爆笑、「だって、好きなものって言ったやん」と、子供心が傷ついた。その絵を、返却され家に持って帰る事になり「お母さんも笑うかなあ、」と心配になったが、お迎えに来た母に「好きなもの、から揚げ描いたら先生も皆も笑ってん。」ここまで話すのが精一杯で
大泣きしてしまった。
母は満面の笑みを湛え「そっかあ!」とその足で
すぐスーパーに行き鶏肉をいっぱい買って来て
その日の夜と、次の日のお弁当にから揚げを
入れてくれた。
年子の弟がいたので、「お姉ちゃん」というプレッシャーがあったのと、食が細かったので、
「これが好き」とか「これ食べたい」とかあまり
言わない子供だったので母はすごくうれしかったみたい
父も「この子は酒飲みになるぞお」とうれしそうに
から揚げをたべていた。
期待を裏切らず酒飲みになり、あてはいつもから揚げ
身長も171センチと大きく元気に育った。

「から揚げの絵」は、いまも大切に実家に保管して
ある。
おかあさん、ありがとう。


俺は、いわゆる母子家庭、一人っ子で、母親と二人で18歳までは京都に住んで 、大学に入ってからは東京で一人暮らしている。

913 名前:1 of 3[sage] 投稿日:05/03/18(金) 19:57:46 ID:UkzR+8vB [1/3]
(十数年前時点の)私と母親の話です。地元紙にも同じ感じの内容が載っていますが、
それは私のです。

--

俺は、いわゆる母子家庭、一人っ子で、母親と二人で18歳までは京都に住んで
、大学に入ってからは東京で一人暮らしている。

ちなみに俺と母親とは40歳離れている。小学校の時は「俺の母親だけ何でこん
なババアやねん!もっと若かったらなあ。」とか、「なんで俺のところだけ、
父親いないねん、こんな貧乏やねん」っとか不満に思っていた。母親と言い合
いになれば、「違う家に生まれたかったわ!最低や」とか平気で言っていた。

母親には18歳までは反抗しまくりで、よく言い合いをしていたから、東京に来
て、のびのびできるとせいせいしていた。


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小学校低学年のとき、同居していた祖父が入院しました。

259 名前:名無しさん[] 投稿日:2000/03/27(月) 17:59
小学校低学年のとき、同居していた祖父が入院しました。
昨日までピンピンしていたし、誕生日を目前に控えた私と一緒にプ
レゼントに買ってくれる予定だった鉄道模型の選択をめぐって、カ
タログを見ながらああでもないこうでもないと話していたので信じ
られない気分でした。

父も母も病院に行ったまま夕方になり、おなかをすかせた私と兄は
途方にくれていたのですが、病院にいる母から電話があって、とり
あえず冷蔵庫にあるメロンを食べていなさいと言われました。
15年くらい前なので、メロンといえば高級品、という時代でも無か
ったのですが、いつもは1/4かそれ以下分の、しかもサイコロ状に
切ったものしか食べていなかったので、自分たちで一個のメロンを
好きに食べて良いということがよっぽど嬉しくて二人ではしゃぎま
くりました。
とりあえず半分に切って分けることにし、どこに切れ目を入れるか
で兄とはしゃぎながら言い合っていたところに病院から父が帰って
きて「何してるんだ!おじいちゃん死にそうなんだぞ!」とすごい
剣幕で怒鳴られました。
私たちはシュンとしながらも(怒られたので)味のしないメロンを
黙々と食べ、そのまま寝ました。

翌日、祖父が息を引き取りました。
私は祖父の身体を綺麗にしおわった後に病院に到着し、おそるおそ
る祖父と対面しました。
病院自体が恐くて堅くなっていた私が冷たくなった祖父との対面を
冷静に出来るはずもなく、恐ろしくなってすぐに部屋から出てしま
いました。


260 名前:名無しさん[] 投稿日:2000/03/27(月) 18:01
そこで、母から「○○(私の名前)へ」と祖父の字で書かれた封筒
をもらいました。
中をあけるとお金が入っていて、私と約束したプレゼントを買うよ
うにと祖父が母に言付けをしたそうです。

私の誕生日に行われた葬儀の時に、父が葬儀屋の用意した白い座布
団に涙を一粒だけ落としたのを隣に座っていた私は見ました。
そのとき、自分の父親(=私の祖父)の死が迫っているというのに
メロンの切る場所ごときの事で大はしゃぎしてしまったことや、
誕生日のプレゼントを買うようにとお金を残してくれた優しい祖父
の死に顔をまともに見てあげられなかったことへの後悔が一気にや
って来ました。

私は今年でもう25になるのですが、父にあんなに怒られたのは今の
ところあれが最初で最後です。

このスレッドを見始めてかなり経つのですが、今になって突然この
話を思い出してしまいました。
今となっては祖父の顔や声の記憶は薄くなりつつありますが、雰囲
気だけはなんとなく思い出せます。

私も多分、父に対しては父が祖父に接していたのと同じ様な接し方
をしていると思うので、もう少しトゲの無い接し方をしたいと思い
ました。



俺は川崎の方に衝撃受けたなぁ。俺も親が離婚し祖父母と叔父に育てられたから。

382 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 00:53:17.83 ID:6pviHdFM0
俺は川崎の方に衝撃受けたなぁ。俺も親が離婚し祖父母と叔父に育てられたから。俺の場合は環境が良かったんだろう。
父親親権だったものの一人では育てられなかったから俺は実家に預けられた。それでも折に触れ連絡したり会いに来たりしたときに父親が俺の事を気にかけてくれてたのは分かった。
それに祖父母や叔父も俺を腫物扱いせずに育ててくれた。
特に叔父は普段いない実父に変わり父親をやってくれた。父親が二人いるような、そんな気持ちを持っている。どちらも大事な父だ。
そんな父達に育てられた俺はとても幸せだと感じ生きてきた。だが、どこか間違ってたら俺も川崎事件を起こしてたのだろうか。

今は二人に教わった事から自分の息子の子育てをしてる。そのおかげか、息子はとても優しい子に育っている。
今度、二人の親に酒持って行くか。


まだ15年しか生きてない身だけど、将来子供が出来きたらいっぱい愛情を注ごうと思う。

874 名前:癒されたい名無しさん[] 投稿日:2007/02/11(日) 06:25:44 ID:EwxtTTuh
全然泣けないが少し語らせてくれ!!



俺は3人兄弟の末っ子(兄、姉、俺)なんだが、
兄弟でただ1人病弱なのか、1歳の時に川崎病にかかり入院した。

特に問題もなく退院したのだがまた7歳で再発し、入院することに。
この頃からだろうか、「なんで俺ばっかり…」と思うようになった。
とにかく自分が嫌でしかたなかった。
「なんで俺を産んだのだろう…」
小2してはとんでもないことを考えてたと思う。

退院できたものの、運動制限付き。
体育の授業は出来ない。運動会も出れない。
皆と同じ事が出来ないのがとても悔しかった。
それと同時に親を憎んだ。今考えれば本当にバカだ。

2年生ももうすぐ終わりだというときに授業参観があった。
授業は道徳で親と子が手紙を互いに交換し合うというものだ。
俺は恥ずかしく、
「いつもありがとう」
などとしか書けなかった。



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台所でおやつをあさっていたら、おいしそうなクッキーの袋が。

619  ぱくぱく名無しさん sage NEW!! Date:04/05/20 16:46
リアル消防時代の思い出
台所でおやつをあさっていたら、おいしそうなクッキーの袋が。
おっこりゃいいや、と食べようとしてパッケージを見たら
愛犬のおやつ とあるではないか。人間用そっくりの見た目でまぎらわしいなぁ。
と思いつつあきらめて、ジュースを飲んでおやつとした。
夕方、友達の誕生日会から帰ってきた妹が
母に文句を言っているのが聞こえた
妹「なんか、おかあさんが買ってきたクッキー味がなかったよ。」
母「あらやだー、あんたあれロクちゃんのクッキーよ。まさか友達にも食べさせたの??」
妹「…誕生日会だったからおやつ持ち寄ろうって約束したから…」
母「あんたってこは!!一言聞いてくれれば(以下お小言が続く」
そこへ祖母が登場
祖母「あのー台所にあったクッキーさっき食べたんだけど味がないねぇ」


中学高校と体育会系だったのでいつも死ぬほど腹を減らしてた。

116 名前:名無しさん[] 投稿日:2000/03/13(月) 20:51
中学高校と体育会系だったのでいつも死ぬほど腹を減らしてた。
途中で間食もしていたが家に帰る頃には空腹でほとんど倒れかけになっていて、
風呂より着替えより何よりもまずメシ、という状態だった。
熱い汁物は喉を通らないので牛乳のリッターパックを片手にご飯を
掻き込み、定食屋換算で4人前くらいのおかずと4合の米(+牛乳1リットル)
を平らげた。母親は呆れて、いつも
「誰もとらないんだからもっとゆっくり食べなさい」
と言っていた。
父親は晩酌なんぞをしながらその姿を面白そうに眺めていて、
んで
「じゃ、俺も少し飯にしようかな」
かなんか言う頃には(四合炊きの釜なんで)飯は当然残ってない。
母親が申し訳無さそうにそう言うといつも決まって父は笑いながら
「いいよ、じゃあ蕎麦がきでも作ってくれ」
(*そば粉を丸めたもの)

腹が減っている間はヒトの事など構っている余裕はないが、
満腹になった頃に(ほぼ毎日のように)展開するこの光景を
どことなく心苦しく思っていた。

高校を出て家を離れ十年近く経ったいまは割と人並みの食事量になったが
蕎麦がきと言う言葉を聞くとなんとなく肩身が狭い感じがする。
(……いや、父親はまだ健在なんですけどね)


117 名前:名無しさん[] 投稿日:2000/03/13(月) 23:26
しかし、あの頃の食べ盛りの時代の食欲って
我ながら凄かった。とにかく食べまくってたなぁ

ウチの両親は、俺が昔に比べて食べる量が減っていくのを
しきりに食卓の話題にしていたが
多分、俺の食事量が減っていくのが、俺が成長していってるってことで
嬉しかったのと、自分たちがそのぶんトシをとっていっているのを
再認識する材料になってたんだろうな、と思う。


子供の日だから祖父祖母に息子見せにきたわ

878 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 09:50:47.67 ID:wxDSHVBcM0505
今日は子供の日だから祖父祖母に息子見せにきたわ
天気は良く鯉のぼりが風に揺れ、祖父祖母も子供達も楽しそう
こういうのが幸せなんだろうなぁ
これだけでも生きてる意味があったような気がするわ
独身さんや小無さんはこの体験が出来ないからかわいそうだわ
何買ってやっても何してあげてもこれだけだわ親孝行してると実感するのは


彼との結婚を私(25歳)の父と母は猛反対していました。

701 名前:癒されたい名無しさん[sage] 投稿日:04/09/11 14:33:30 ID:7V/U3aP3
627 名前:大人の名無しさん 投稿日:02/04/20 14:08 ID:ietIbiLR
彼との結婚を私(25歳)の父と母は猛反対していました。
彼は昔両親を亡くして、祖父母に育てられていました。
そして4年前祖父が亡くなり、彼は32歳になる今まで84歳の祖母と二人暮しでした。
それが反対の理由でした。
「何も結婚してすぐに介護が目の前にあるような結婚をする事はない」と。
結婚を申し込みにきた彼と彼の祖母ににもそう言い放ったんです。
その2日後でした。
彼の祖母が置手紙を残していなくなりました。
仕事から帰った彼からの電話で、私達は必死で探しました。
探して探して探して
空が明るくなりかけた頃、彼の祖父の眠るお墓の前に座りこんでいる祖母を見つけました。
歳も歳だったので衰弱し、そのまま即入院になりました。
その事がきっかけで、私の両親も私達の結婚を許してくれ
結婚式はせず、すぐに籍だけをいれました。
もう10年近く前の話です。
祖母は入院後1ヶ月ほどで亡くなりました。
その時の手紙です。


702 名前:癒されたい名無しさん[sage] 投稿日:04/09/11 14:34:26 ID:7V/U3aP3
●●へ(彼の名前)

ばあちゃんは本当に貴方がかわいかった。
貴方のお父さんとお母さんが死んだ時
私のこの先の人生は貴方の為に使っていこうと心に誓いました。
ばあちゃんは年であるしお金もない
何も何も持ってはおりません。
貴方への愛情だけです。
そして貴方はばあちゃんの事をとてもとても大切にしてくれた
とてもとても良い子に育ってくれました
そして人生の伴侶となるべき相手を見付けました。
でもばあちゃんがそれをじゃましているんだね。
幸せになってください。
ばあちゃんは貴方を育てる事が出来た事がとてもうれしいです。
とてもとても幸せでした。
妙子ちゃん(私)と、どうかどうか幸せになってください。

https://life5.5ch.net/test/read.cgi/healing/1078990472/

私は二人姉弟の姉、弟は3つ年下で、私が幼い頃は母は弟の世話に終われていてちょっと寂しかったのを覚えている。

526 名前:癒されたい名無しさん[sage] 投稿日:2006/02/15(水) 11:44:41 ID:4ou4/XXs [1/4]
涙が出るほどってわけでもないけど、思い出を一つ。
私は二人姉弟の姉、弟は3つ年下で、私が幼い頃は母は弟の世話に終われていてちょっと寂しかったのを覚えている。
当時田舎に住んでいて、3~4歳当時はよく近所の野原に一人で遊びに行ったものだった。
家が周囲にぽつんぽつんとしかない所で、近所に同年代の子がいなかったのだ。
やがて家族で市街地へと引っ越し、私は幼稚園へ通うようになった。
それまでは友達と呼べる相手もなくかなりの人見知りだったが、次第に友達もでき、楽しい幼稚園生活だった。


527 名前:続き[sage] 投稿日:2006/02/15(水) 11:46:20 ID:4ou4/XXs [2/4]
そして無事卒園し、小学校へ。
4年生の頃だったと思う。
弟も大きくなって手が掛からなくなり、母は家計を助けるためにパートへ出るようになった。
小学校から帰るとその日も母はパート、弟も遊びに行ったか何かで不在で、家には私一人だった。
多分暇だったのだと思う。
私は幼稚園の頃の絵がまとめて入れてある段ボールを引っ張りだし、
「下手くそだなぁ」とかべたな感想を抱きながら眺めていた。
と、底に一冊の卒園文集があるのを見つけた。
内容は親から卒園するわが子へというもの。
私は母の書いたページを読んでみた。


528 名前:続き[sage] 投稿日:2006/02/15(水) 11:48:25 ID:4ou4/XXs [3/4]
「〇〇(私)が幼稚園に通う前、下の子の育児に追われ、なかなか遊んでやれない毎日でした。
ある日、気付くと家から〇〇がいなくなっていて、私は下の子を背負って近所を必死に探し回りました。
〇〇は野原に一人でいました。
しゃがんだ小さな〇〇の背中が、広い野原の真ん中にありました。
構ってやれない申し訳なさや、可哀相という思いでいっぱいになり、この子に友達を作ってやりたい、そう思って引っ越しと幼稚園入園を決めました。
今ではすっかりお姉さんになって、友達もでき、毎日元気に通う〇〇が頼もしいです。
小学校でも、毎日元気に過ごしてくださいね。(…以下略」


529 名前:終わり[sage] 投稿日:2006/02/15(水) 11:50:19 ID:4ou4/XXs [4/4]
文集が手元にないからうろ覚えだけど、大体こんな内容だった。
当時、家事と仕事で忙しく、いつもイライラしていた母が私はちょっと疎ましかったのだが、
子供なりにも嬉しかった。
お母さん、ちゃんと私のことを考えてくれてるんだなぁー
と思った。
今、私は母がその文集を書いた年代になった。
未だ結婚もせず、ろくに親孝行もできずに働きまくっているが、
それでもいつかは子供を生み、母のような母親になりたいと思っている。

長文スマソ。


俺は耳が聞こえないから

492 名前:1/5[sage] 投稿日:2006/02/13(月) 05:50:13 ID:Ksv7Zq5b [1/5]
俺には母親がいない。
俺を産んですぐ事故で死んでしまったらしい。
産まれたときから耳が聞こえなかった俺は
物心ついた時にはもうすでに簡単な手話を使っていた。

耳が聞こえない事で俺はずいぶん苦労した。
普通の学校にはいけず、障害者用の学校で学童期を過ごしたわけだが、
片親だったこともあってか、近所の子どもに馬鹿にされた。
耳が聞こえないから何を言われたか覚えていない(というか知らない)が
あの見下すような馬鹿にしたような顔は今も忘れられない。

その時は、自分がなぜこんな目にあうのかわからなかったが、
やがて障害者であるということがその理由だとわかると
俺は塞ぎ込み、思春期の多くを家の中で過ごした。
自分に何の非もなく、不幸にな目にあうのが悔しくて仕方がなかった。

だから俺は父親を憎んだ。
そして死んだ母親すら憎んだ。
なぜこんな身体に産んだのか。
なぜ普通の人生を俺にくれなかったのか。

手話では到底表しきれない想いを、暴力に変えて叫んだ。
ときおり爆発する俺の気持ちを前に、父は抵抗せず、
ただただ、涙を流し「すまない」と手話で言い続けていた。

その時の俺は何もやる気がおきず、荒んだ生活をしていたと思う。

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つぶやき
復調しました。みなさま励ましのお言葉ありがとうございました^^


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